人生で初めての転職。1995年にOracle Japanでコンサルタントとして米国製のパッケージソフトを日本の大手企業にカスタマイズ導入する仕事を担当することになった。というか当時ドイツのSAP社に大きく後れをとっていたOracle製のERPの開発・導入の仕事に自ら手を上げた。IBM時代に開発製造部門に所属していた。つまり工場という現場での仕事を知っている。そこでのヒト・モノ・カネの流れをシステムを通して熟知していた。自分がやらねば誰がやれるんだという強い当事者意識からであった。当時の佐野社長は優しい人物で何度も引き止めてくれた。「お前はもっとEmerging Technologyの世界で活躍しろ。その方が山元のためにも会社の未来のためにも良い。」優しくされると余計に「いばらの道」を選択する性分だったこともあり、自分で道を選択させてくれた佐野社長に今でも感謝している。
担当した最初のプロジェクトのオーナーが東芝さんであった。毎週浜松町の東芝本社に通う生活であった。当時の日本オラクルは過度にパートナー経由の販売に依存しており、私がコンサルティングチームのGMになった時も冷ややかな目で見えているマネジャーも多かった。本当にできるのか?パートナーの開発チームの妨害になるのでは?いろいろな憶測があったのだろう。しかし、肝心の製品を見てしまった私はそんな悠長なことを考えている暇はなかった。10億円規模の契約が決まろうとしているのに、日本語版の製品すら完成していなかった。マニュアルの日本語化も、製品そのものの日本化も完成していない。導入のためのコンサルタントも教育や保守のチームも整備されていなかった。誰もやっていないのであれば私がやろうではないか。という自分の性分のためにどんでもない生活が始まった。睡眠時間や海外出張の多さ、会計士やCPAの面接の多さなど今から考えると奇跡としか思えないような数年間だった。すべては東芝様のために私の第2のビジネス人生は回転し始めたのだった。
とても優秀で真摯な方が多い企業だったという印象である。契約書のチェックの際もどの企業よりも多くの法務担当の方のレビューが必要なことも記憶に刻み込まれている。コンサルタントへの要求もフェアだが厳しく、初年度は名指しで日本人への支払いは拒否されたことが私を強くしてくれた。米国・英国・インドのコンサルタントの助けなしではプロジェクトが前に進まないのが実情であった。巨大なプロジェクトを進めながら、日本人コンサルタントを採用・育成しなければならない。それに加えて外国人の面接のために出張することも多くなった。私を育ててくれた恩人なのである東芝さんは。
1990年代世界で一番売れているノートブックPCが「Dynabook」だったことを覚えている方も多いだろう。私も当時はDynabookのファンでありユーザーでした。カッコ良かったし、性能もトップクラスでした。PDAも東芝製を使用していました。
昨日コミュニカ英語塾の塾生から報告を頂いた。新卒で5年間勤めた東芝からベンチャー企業へ転職するとのこと。5年前大学生だった頃、私が講演した学生さんの中で一番キラキラしていたHさんでした。第一希望の大企業に内定が決まって夢が膨らむのは当然ですよね。まさか今の東芝さんの状況を誰が予想できたでしょうか。昨年SHARPにお勤めの息子さんをお持ちのお母さんから転職の相談を受けた時も少し悲しい気持ちに包まれました。「原子力の仕事は豆腐の仕事と同じで、いっちょう・にちょうの単位で仕事が取れるんだ」と話しておられた某社長の顔が思い出されます。